エアキングを手離し、「時計」から離れる
僕の時計との出会いは幼少時に父のネイチャー雑誌、アニマで見たロレックスとオメガの広告。それらが僕を時計好きに仕立ててから現在に至ります。そして32歳で念願のロレックス 、エアキングREF14000を手に入れたのです。
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さて日経BPで連載されている、僕の中の神(God)さま 広田雅将氏の時計遍歴を描いた「僕の履歴書」、毎回楽しみに読んでいます。導入文でも書いていますが、一番ビックリしたことは氏が「時計から離れた時期」があったことでした。
実は僕も同様の時期がありました。それが上のエアキングREF14000を止む無く売却した頃です。手離した理由は貧乏だったから。当時自営をしていた僕は経済的に全く余裕が無い日々が続き売却したのです。
30代の初めにやっとの思いで購入した念願のロレックスを僅か5年で手離すことはかなりの葛藤がありました。忘れもしない2003年12月札幌の大通を大通り公園に向かって歩く僕の足取りは重く、小雪の中うつむき加減でトボトボと東邦生命ビル(当時)を横切った記憶があります。
当時エアキングを買い取って貰ったのは大黒屋質札幌店でした(笑)。僕はこの頃から大黒屋さんと縁があったのかも知れません。手離したく無い!僕はエアキングによって、数少ない「ロレックス時計友達」ができたのです。
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当時会社の後輩「フカッピー」が購入したのがGMTマスターREF16700。当時の日本国内で正規品は今で言うペプシカラーのみでした。並行品で上の黒ベゼルが流通していて、彼は「希少だ!」と言い僕に追随するかのようにこのGMTマスターを購入してきたのです。
僅か10人ほどしかいない、僕の所属していた課に2つのロレックス が燦然と輝いていました。しかしそれだけでは終わりません。もうひとりの後輩、エンちゃんもある日サブマリーナ を手に巻いてきたのです。
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たぶんこのREF14060です。ノンデイトのサブマリーナ だってことだけ覚えています。エンちゃんはこのサブマリーナ をデパート(三越?だったかなあ)で正規購入、注文してから数ヶ月後にゲットしてきたのです。
エンちゃんは購入動機をエアキングとGMTマスター購入に刺激されたと言っていました。当時彼が選んだ基準はスーツに合う時計とのこと。彼の車は「真っ黒なランドクルーザー」、ファッションに拘った彼らしいセンスの良さにただただ、僕は脱帽でした。
当時の勤務していた会社は良い(時計)仲間に恵まれ、週末ごとに僕の自宅でドンチャン騒ぎの日々。一晩でビール1ケースをまるまる空にして、妻に怒られていました。カールスバーグを片手に時計の話はもちろん、くだらない話も多く語りました。
しかし幸せな日々は長く続きません。僕は10年間勤めた会社を退職、自営業を始めました。その後、前述の通りお金が無く、「無く泣く?」エアキングを手離します。さらにこれまで集めていた時計雑誌も全て廃棄したのです。文字通り時計から離れた時期でした。
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エアキングを失った僕の慰めは安価なスウォッチでした。唯一の拠り所はSWISS 製であること、20代にお土産で貰った3本のスウォッチでその後を過ごします。上は現行品、僕が所有していた物とは違います。オンリーワンが魅力だった3本でした。
ドン底の40代、リーマンショック時に見たトロピカルマンゴー
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40代になって僕は大阪に辿り着きました。そこで起きたのがリーマンショックです。この未曾有の経済危機は2020年の今、「コロナ クライシス」と類似しています。当時の僕は運悪く、経済危機の余波をモロに受ける「損害保険会社」で働いていたのです。
当然リーマンショックの影響は甚大、営業で断られる日々。そんな最中僕はなぜか再び時計の世界に目を向けるのです。理由はインターネット、ブロードバンドの普及です。2004年頃から急速に普及した高速インターネット回線は時計の世界も変えていきます。
その頃ロレックスやオメガは企業HPを充実、また販売ネットワークも実店舗からネット通販が出てきます。それ以外にも時計の情報収集が容易になったことも挙げられます。もともと時計の情報収集は困難極まりない物。ネットが乏しい頃僕は雑誌を集めるだけ集め、最盛期の僕の本棚には30冊以上の時計雑誌が置かれていました。
インターネットで、かつて無くした物を取り戻せるとでも思ったのでしょうか。無性にリーマンショック時にこのミルガウス「トロピカル・マンゴー」が欲しかった記憶があります。しかしそれは実現できず、損保会社をノルマ未達でクビになるのです。
デイトナを諦め切れないN君の末路は?
40代半ばで、無職になった僕は近くの工場や高級家庭教師を派遣する会社を転々し最終的に肉体労働系の会社にたどり着きます。そこで見かけたのがまたまたロレックス 、それもデイトナでした。
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職場の雰囲気に全く合わないデイトナを付けてきたのは見習いとして入社してきた30代の痩せこけたN君。同じ班の見習いであった、N君に対し僕は意を決して彼に「N君デイトナだね」と話しかけました。
N君は驚き時計を隠し、僕から視線を逸らしました。周りの誰もが彼の時計に気付かず、あくまで親近感を込めて言ったつもりでした。彼は時計には触れて欲しく無かったのでしょう。そこから10数日が経過、彼が見習いから昇格する前日、突如としてN君は音信不通になります。
後日わかったことですが、僕は彼と名刺交換した事がありました。彼が消えた数日後、家の中にあった保険会社時代の名刺ファイルから彼の名前が偶然出てきたのです。当時の彼の肩書きはある金融会社の「部長」。もしかしたら、彼は僕を覚えていたかも知れません。僕も彼が部長時代にデイトナを「チラ見」させてくれたら思い出したはずでしょう。
腕時計は人生のマイルストーン
この40代半ばまでに感じたことは腕時計は人生のマイルストーンのような物と思いました。良いことがあれば時計を買う、悪いことがあれば時計を売り、人生というレールの上に標石を置いていく事です。僕の勝手な意見ですが、N君はデイトナを諦め切れずに会社を去ったかもしれません。
でもその思い出が記録して残るから思い出の時計を振り返り人生を見つめ直します。若き日にフカッピーとエンちゃんと飲んだカールスバーグは今も傍にあり、エアキングに変わりTISSOTとMacBookがある日々です。1記事にまとめようと思いましたが40代後半から現代までは次回に書きます。お楽しみに。